Between the waves  ~ 波のまにまに

いろいろな書き物を置いています

分類:書き物の大まかな分類 
概要:舞台となる年代、概要など 
年齢制限:読者の想定年齢 

Baliにて

分類:短編集 
概要:様々な短編 
年齢制限:なし


R01 青嵐 Wind blowing   


 クライアントへの報告の終わった午後、ようやく見えはじめてきた初夏の日射しを受けながら銀座中央通りを新橋に向かって歩いた。クライアントのオフィスは昭和通り沿いにある。一旦、松屋の角まで出て中央通りを歩く。やはり、そぞろ歩きをするなら中央通りだろう。この通りは人を退屈させずに目的地まで届ける大都市の少ない通りだ。これで緑地が近くにあればいいのだが、そう注文ばかりをつけてはいられない。
 最近合併して大げさな名前になった銀行に入って現金を出す。この銀行、もとは近所の地方銀行だった。それが何度か合併しているうちに大きくなって、少し遠い存在になった感じだ。そう言ってみたところで昔が戻るわけでもない。ふと子供の頃を思い出す。まだ、街の沖合に島がなかったころだ。今では2つめの島にも人が住み始めた。
 銀行を出ようとしたところで外の眩しい光を受ける。もう一度ふっと昔の思い出が頭をよぎった。初夏の日射しを受けて颯爽と歩く女の子の姿に、別れた女の子の影が重なる。腕時計を外しポケットにしまった。
 仕事も終わり、女の子とも別れた初夏、中央通りをぶらっと歩く。浜離宮までもそんなに遠くはない。海が見たくなった。心地良い風が吹いている。

 

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R02 風の詩 Wind sings 


 風が吹いている。緑の大地を通り、海を渡り、庭の木々の梢をそよがしている。長い旅を続けてきた風だ。風は私に話しかける。
 「よう、元気か!」
 私はまあまあだと答える。風はいつも元気なのだろう。私は風の生い立ちについて考えてみる。部屋のラジオからは風の挨拶に答えるように軽いロックが流れている。
 「今日はどうする?」 風が尋ねる。
 「うん、ちょっと出かけてみようか。たまの休みだし」 私は答える。 「街に出てみたいね」
 それにあわすようにラジオからHiphopのメロディーが流れる。
 「ほら、早くしないと日が暮れてしまうぞ」 別の風が来てそう急かす。
 風が運んでくるさまざまな匂いを感じていると、なんだかコーヒーが飲みたくなった。ここ暫く飲んでいない。ちょっと考えてみた。2週間、いや、3週間か。あの子と別れて以来だ。なんだ、そんなに前じゃないんだな。一週間が過ぎるのは早いが、あれ以来時間は経っていないんだ。
 そんな私の感傷など気にせず風は次々と吹いていっている。遠い遥か彼方から遠い彼方へと。
 湯を沸かしドリップの上からゆっくり注いだ。コーヒーの香りが周りを包む。しばらくたってからドリップをとった。カップから立ちのぼったコーヒーの湯気は風たちと戯れながらその後を追うように流れていった。目で追っていたが、そのうち周りの風に紛れて私にはわからなくなってしまった。

 

 

R03 流れ雲 The stream

 

 私にはわからなくなってしまった。流れゆく月日と雑踏の中に紛れてしまって。私が紛れてしまったのか、それとも彼女たちが紛れてしまったのか。通り過ぎていった、昔へさかのぼる彼女たち一人ひとりの思い出がよみがえる。彼女たちはいつまでもあの時のままだ。私の感傷は、時の断片を集めたものにすぎず、それ以前にもそれ以後にも繋がらない。ただ、継ぐことができるのは私自身の記憶だけだ。 
 「私自身の記憶」 これこそが私の持っている唯一の連続する記録であり、他の人々はその私との接点または接線でしかない。だから、私の愛した彼女らはいつまでもあの日のまま迎えてくれる。
 紛れていったのはやはり彼女たちなのだろうか。私は高い建物の上から、人の流れの中に紛れていく彼女らを見送る存在でしかなく、ふり返ったその場所には他に迎えてくれるものもない。もう追いつくことのできない影を思うだけなのか。
 そして、もう一度目を凝らしてみてみる。すると、遠く人の流れの中に紛れていってしまっている彼女の近くには、あの日の自分の姿もあるではないか。彼女と同じペースであの日の自分も一緒に紛れていっている。
 彼女も紛れていき、気がつけば自分自身も紛れていき、そういう風にいろいろなものをどんどん失くしていき、私は一層孤独になっていく。

 

 

R04 軽装 Lightly dressed 


 孤独になっていく。一つ一つ不要なものを除きながら。身軽になりたくて一つ一つポケットの中のものを机の上に出しながら。そうやって身軽になりながら、私はどんどん孤独になっていった。
 今ではもうポケットの中に何もなくなっている。私は十分身軽になったのだ。しかし満ち足りた思いはない。私はポケットのものをどんどん捨ててしまい、今では何一つ、食べるものさえ持っていない。しかも空腹ときている。
 キッチンへ行って冷蔵庫の中をあさってみる。缶ビールが3本、ひからびたハムの固まり、いかの塩辛、ゴーダチーズ、昨夜の食べ残りのピッツァと野菜サラダ、乾電池、冷凍庫には保冷剤が入っていた。私はビールを2缶取り出し、昨夜のピッツァを食べることにした。オーブンレンジでピッツァを温めている間に音楽をかけた。クリス・レアのNew light through old windows。最近よく聞いているものだ。ピッツァをリビングのテーブルに置く。深くソファに座り、ひとしきり音楽に聞き入る。冷えたビールがとてもうまい。ピッツァを最初のビールで流し込んだ。やはり一晩おくと味も少しは悪くなる。ゆっくりと時間をかけて2缶めのビールを飲んだ。
 今ではもう腹は減っていないが、それでも満ち足りた思いはない。ステレオからは音楽が流れている。

 

 

R05 Enduring in the darkness 


 音楽が流れている。昔聞いたことのある音楽だ。彼女にもらったテープに入っていた一曲だ。彼女が好きだと言っていた曲だ。この曲を聞くと必ず彼女のことを思い出す。いや、正確に言うと、この曲を思い出すと必ず彼女のことを考えてしまう。
 彼女は髪が長く、色が白く、赤い口紅の似合う子だった。私に振りまわされることもなく自分のペースで生きていき、敢えて私の生活のペースにも入ろうとしない。私は彼女のそういったところが好きで彼女と会っていた。だが、よく考えてみるとそれは、単に彼女がわがままで自分の好きなように振舞っていたとも解せる。彼女自身、自分でそのようなつもりでいたらしい。流行に無為に追われたりすることはなかったが、自分のスタイルというものもまだ確立していなかった。ただ、自分のしたいようにしているだけだった。
 彼女と会わなくなり、私の生活は幾分軽さを取り戻したが、孤独感は一層大きくなった。そして、何ということもない感情の波に押し潰されやすくなった。
 「こんな所で一体何をしているんだ」
 「何のためにここにいるんだ」
 「ここで自分の時間を使っていいのか」
 私はそのどれにも答えられず、ただ感情の波に押し潰されないようにこらえる。暗い闇の中で耐えながら、自分の存在理由を見つけようとしている。
 それでも、時は流れている。

 

 

R06 持駒 Choise in hand 


 時は流れている。確実に。改めて言うことではないがそうだ。自分が作家に憧れていた頃からもずいぶん経った。そして、自分が作家の心を失くしてしてからも。
 作家、この言葉には2つの意味があると思う。一つは writer いわゆる物書き。もう一つは story teller いわゆる小説家というもの。この2つを比べてみると明らかに自分は前者の範疇に入る。明らかにというのは、ストーリーの組立ての稚拙さに気づいてそう言ったまでだ。
 物書きと小説家。この両者の違いは書かれた文書を見ればわかる。前者は自分が書きたいと思って書いたもの、後者は読まれるべきことを想定して書かれている。そういった立場で見ると物書きの書いたものと小説家の書いたものは明らかに別物なのだ。ただ、才能ある作家は両者を使い分けることができるだけだ。
 時が流れ、進化のスピードについていけなくなった一個の人間は、枯れていく才能に対し、何らかの行動をとらなければならない。若い頃、才能のあるうちに自分の才能を生かせたもの以外誰しもこの問題に直面すると思う。少しなりとも自分の才能をもとに生きてゆこうとするなら。
 そう、若い頃は誰しも才能に溢れ、選択肢を多く持っている。その中のどれを生かしても十分生きていけるだろう。だが、どれも生かせなかったものは残った駒の中で生きていくしかない。それは結局個人の問題なのだ。

 

 

R07 閉鎖と解放 その1   


 個人の問題なのだ。人の一生とは、ある人が生まれ、時の流れに伴い成長し、老い、死んでいく。そこに何らかの意味や価値、理由があるとすれば、それは、その人が生きていて、自分でそれらを感じている、又は、周りの人間がそう感じていることだ。いずれにしろ、それは閉じた世界のことであり、その世界を離れたところでは何ら意味を持ちえない。つまり、その世界の枠を縮めていけばそれは個人のレベルまで小さくなり、人の一生とは個人の問題に帰結する。
 個人で感じる喜び楽しみは、その個人の世界(主観)に限られ発生するものであり、それが閉じた世界の中でグループ内全員の共有物のような形で見えたものは、個人レベルの意識を共有しているに過ぎない。もしくは共有することにより各個人に発生したものだと思う。
 つまり、人の一生の価値、存在意義等というものは、個人にしろグループにしろ、閉じた世界の中で判断されている。その個人(閉じた世界のグループを含めて)が価値があると思うものが価値があり、個人が意味づけるように意味がつく。
 視点を変えれば、開いた世界において、個人としての価値は存在しない。あるいは、個人という単位では存在しえないということだ。
 そうであれば、人生の価値というものは何をもとにして決められるのか。そう考えても結局、主観に帰結するのだろう。
 「我思う、故に我あり」 
 主観を離れては価値は意味を持たない。

 

 

R08 閉鎖と解放 その2  


 価値は意味を持たない。確かに開いた世界ではそうあり得る。だが、価値が存在しないかと問われれば、それはどうか。閉じた世界での価値の存在は確認することが可能だ。だが、開いた世界では不可能かもしれない。それはあたかも色の存在が光の下でしか確認できないのと似ている。色の確認は、その色の存在している光の種類によっても変わってくる。黄色い光の下では黄色く見えるということだ。そう考えると色の存在は相対的な存在と考えられる。つまり、光の種類に応じてその存在を変化させているということだ。だが、逆に色という絶対的なものがあり、光の種類によって我々の知覚が相対的に変化し、色の種類が変わっていくとも考えられる。
 この閉じた世界、開いた世界の問題も、色の問題と同じように見方によっていろいろな考え方がある。だが、どの考え方に立つにしても、それを捉える主観の影響を除くことは不可能だと思える。そう考えると、開いた世界の論がどこまでそのある姿に近いかということはわかり得ない気がする。また、認識できる範囲を超えたものに対する認識、つまり認識できないものの存在を認めるということが可能かということもある。
 雨が降っている。それは雨が存在するから確認できるのだ。価値がある。もし価値が存在するならやはり確認できるのだ。わからない、気のせいだとも思えない。雨が降っている。

 

 

R09 閉鎖と解放 その3(1つの輪)  


 雨が降っている、音楽が流れている、風が吹いている、孤独になっていく。
 忘れ去っていく、消えていく、離れていく、流されていく、減っていく、過ぎていく、捨てていく、諦めていく、飽きていく、辞めていく、老いていく、手放していく、身軽になっていく。
 そうして悟ったものは何か。それは何だろう。
 この世に絶対となるものはない。とすると死というのはどういうことだろう。知り得る限り全ての個は死を迎える。すると先の命題は偽となる。つまりこの世に絶対となるものが存在していることになる。そうだとすれば、その絶対なるものを認識できる存在もあることになる。それは何なのか。
 知識と呼ばれるものがそうかもしれない。もし、知識が絶対物を認めることが可能なら、個人も知識を使うことで絶対物の存在を認めることが可能になるのか。それはわからない。
 「例外のない例はない」 この命題の真偽は?
 この命題を真と認めると、この命題の意味、つまり例外の例はないということが先の命題を真と認めることに矛盾する(方程式内の解と変数が相互に干渉しあっている)。認識しようとするとその存在が変化し、変化した状態を認めると認識の基準も変化している(解を得るにはもう一つ条件が必要だ)。つまり、それが主観だ。そう思えるのだが。

 

 

R10 黄昏  


 そう思えるのだが。いつ果てるとも知れない夢といつ果てるとも知れない命を持って。私は、駅の中に吸い込まれていく人々や吐き出されている人々を夕方のタクシー乗り場から見ていた。深夜のタクシー乗り場から見る駅の構内は清潔とは言わなくても、明るい、心を落ち着かせてくれそうな場所に見える。だが、夕方の構内は、むしろ不潔で人々が足早に過ぎていく、長く留まるのを求めない、そんな場所のようだ。
 改札を出た所で人と待ち合わせしていると思われる女の子は、長く一か所にいない。しばらく改札で待っていたかと思うとトイレに入り、その後キオスクまで行って並んでいる雑誌を一通り見渡し、また改札に戻ってくる。それをもう3回も続けていた。4回目彼女がトイレに入ると、これまでより少し長い時間入っていた。
 私は腕時計を見た。いろんなところがごぞってニュースを流しだす時間になった。もうかれこれ半時間近くタクシーを待っていることになる。街中の駅前でこんなに長くタクシーを待たされることもあるんだな、と変に感心してしまった。夜の仕事に備え食事にでも行ってるのだろうか、考えられなくもない。視線を移して駅の外を眺めてみた。駅前の建物に挟まれた狭い空が色づいていた。
 待ち合わせの女の子はコース通りキオスクへ行った。今回はそこでキャンディーを買い、釣銭を握りしめて公衆電話に向かった。

 

 

R11 勝ち試合 Winning game 


 公衆電話に向かった。受話器を持ち上げ、今日の日付と自分の年齢を押す。それだけでは番号数が足りず以前付き合った女の子の数を押し、何とかつながった。コールサインが鳴る。1回、2回。外を割増料金の表示を付けたタクシーが泥酔客を乗せて走り去る。3回、4回。向かいにあるアパートの2階の明かりが消えた。5回、6回。どこかで犬の鳴き声がする。7回、8回。少し先にあるコンビニエンスストアから学生らしき一群が出てきた。9回、10回。信号が変わった。受話器を戻し公衆電話から離れた。時計を見る。午前2時。いたずら電話でなくても失礼な時間だ。誰も出なかったことで少しばかりの安堵を覚えた。
 自分の誕生日の午前2時、私は一人で迎えた誕生日の数を数えた。17勝10敗、まだ勝ち越している。私はこれから一人で迎えるであろう誕生日の数を考えてみた。しかし、そんなことは考えるだけ無駄なのだ。今年20勝あげた新人投手が現役期間中にどれだけ勝ち数をとるかを考えているようなものだ。分かりっこないし、分かったところで大勢に変化はない。
 信号待ちの目の前を別の泥酔客を乗せた別のタクシーが、前のタクシーと同じような顔をして走っていった。

 

 

R12 時点 A point 


 走っていった。終わりのない海岸線を。今ではもう小さく影のようにしか見えない。海岸線へ向かう道はそのまま水平線まで延び向かい、青空に吸い込まれていっている。空には雲の断片すら存在せず、青の濃淡のみで表現されていた。海に反射する空の光が小さく揺れている。遠くの沖合で波が白く砕ける。私は忘れてしまった感覚を再び蘇えらせようと五感を研ぎ澄ます。しかし、それは形だけのものでしかない。
 道路沿いにある大きな木は、青空を背景としてポップアートのように浮き出して見える。大きな緑の葉は、まるで人がイメージする木がこうであるかのように、大きく幹の周りに伸びている。風は吹いているのだろうが、梢を騒がすほどではない。
 私は自分の位置を把握しようと努めた。日射しの柔らかい春の午後、自然のやさしさと雄大さを感じていると、時として仕事やその他の煩わしい一切のことを忘れることができ、それとともに、自分の感覚が宙に浮きあがってしまう。そういう時もあるものだ。
 糸の滝のような雨の降る朝とは対照的だ。どちらも心の平静を与えてくれるが、雨の朝に自分の位置を見失ったりはしない。
 私は、人生の中で自分の位置を確認した別の午後のことを思ってみた。そしてもう一度水平線まで延びる海岸線を見た。空の青と海の青、砕ける白い波、その間を通り過ぎていく思い出。
 遠く走っていく影に追いつけるようアクセルを踏んだ。

 

 

R13 行程 


 踏んだ。人の歩いて行った道を。踏んだ。人の心を。踏んだ。自分の影を。いや、実際には踏まれたのかもしれない。真実はどうか分からないが、私の語る言葉の中では踏んだのだ。
 いろいろな事がある、長い道を行く間には。嫌になり、途中でどうでもよくなったり、別の道を行ってみたくなったり。どの道をたどっても行き先はきっと同じだろう。ただ、別の道をたどることで、その行先にたどり着いた時の気分は大きく違う。言ってしまえばそれだけだが、それが全てなのだ。行く先には何もないのだろうから。
 選んだ道で長いものや短いもの、平坦であったりする。しかし、それは選んでしまわなければ分からない。頭のいい者は先にそれが分かり、自分の好きな道を選ぶことができるのだろうが。
 思ったより短い道を選ぶこともある。そういうこともあるかもしれない。
 退屈せずその道を歩むのには、楽しめばよい。とにかく。(退屈な人間には閉口するが)
 自分の歩く道が、時に他の人のものと交わり、いろいろな人に会うことがある。そんなことも道を行く間に退屈せず過ごす一つの方法だ。だが、中には退屈な人間もいる。付き合うだけ時間を無駄にさせるような人間だ。そういう人間にも明るく挨拶を交わし道を行く。

 

 

R14 (再び)  


 クライアントへの報告を無事終えた午後、再び銀座までやってきた。この前は初夏だったような気がするが、もう今は初冬だ。いや、気候的には晩秋といったところか。今の時間になると街の間を渡る風が冷たい。寂しそうな街路樹もあるが、街並みの多くはイルミネーションで彩られている。
 歩道に面したガラス張りの喫茶店では、クリスマスを控えた二人連れで殆どテーブルが埋まっていた。ふり返って周りを見渡すと、家路を急いでいる人や私のような相手のいないひとり者が目に付く。
 この、秋を終え、冬を迎える季節を私はたいてい一人で迎える。夏の間、街中を元気づけていた人も動物も、秋を迎え冬の気配が近づくにつれ、相手を見つけいく。相手を見つけたものはそのまま南へ飛んで行ったり、自分の巣を作ったりする。そう、季節の変化とともに周りが変化する。それが毎年の習わしだ。そして気がつくと、私は一人で街の風に吹かれている。それもいつものことだ。それを変えようと何度も試みたが、今のところ成功していない。
 そういう頃に私は生まれた。正確には、私の誕生日がたまたまそういう季節の変わり目にある。そういうわけで、毎年、一人で誕生日を迎え、クリスマスを迎え、新年を迎える。例外もあるが、殆どの場合例外は見つからない。

 

 

R15 (Baliにて)   


 休日には早起きをしたい。朝、鳥のさえずりが激しくなってきたことでその訪れを知る。空が次第に青みを帯びて一日の始まりを知らせる。そういう休日の朝を迎えたいと思っていた。
 今日はそういう朝を迎えた。昨夜のアルコールのせいか、鳥たちが朝の訪れを知らせるより早く目覚めた。それでも鶏はすでに鳴き始めていた。シャワーを浴び、今日一日のスケジュールを確認する。というのも友人の友人(としておこう)に8時~9時頃までにホテルで航空券を渡さなければならないのだ。時計を見て時間を確認する。10分進んでいる時計だ。オフィスまで約10分。今出ればオフィスに着く時間を示してある。本当は、出勤時の朝寝坊対策用に時間を進めていたのだが、今では体が覚えていて、最初ねらった効果もなくなってきている。
 約束の時間までまだかなりある。そう思いながらベッドで横になっているうちに軽い眠りに入った。7時30分、一度目が覚めた。また眠り、8時過ぎベッドより起き上がる。車の段取りをしてホテルに向かう。ホテルでチケットを渡し、その後プールで少し泳いだ。
 10時、家に戻ってきてベッドに横になる。シャワーを浴びたかったが掃除中だった。少ししか泳いでいないのに体中に力が入らなくなっている。パームビーチで泳ぎぎれなかったことを思い出し、自分が情けなくなった。
 10時30分、シャワーを浴びると少し気分がさっぱりし、力が戻ってきた。

 

 

R16 (Baliにて2) 


 朝、10分進んだ時計が7時をさそうとしていた頃に電話の音で目が覚めた。誰だ、こんな時間に、そう思いながら、まだ体が睡眠を必要としていることを感じた。昨夜は仕事帰りに P Hotel の退屈な New Year's Eve Party に(正確には遅い夕食をとりに)行ってきたのだ。12時を回ったころに帰ってきたが、なかなか寝付かれず、眠りに入ったのは2時頃だったと思う。今日は朝から Bali Hai Cruse へ行く。一日中船に乗っていることになるだろうから、もう少し体を休ませておきたかった。
 体が眠りたがっていることを感じながら、8時過ぎ、ピックアップバスの来るところへ向かった。待ち合せの場所に着いたのは8時15分頃だったろう。
 僕らはどんなバスが迎えに来るのだろうと話しながら待った。辺りにはたくさんの蝶が飛び交っていた。道路わきには数頭の牛が草を食みながら、腹や腰にたかるハエを尻尾で追い散らしていた。
 8時半頃、たくさん走るツアーバスを見ながら、このバスか、あのバスかと待っていた。何台ものベモ(乗り合いバス)が通り過ぎて行った。空は晴れているが、太陽は少し雲間に隠れたりしていた。蝶は道路もどこもお構いなく乱舞し、散っていく桜の花びらのように風間に漂っていた。牛は相変わらず草を食みながら僕らの方を気遣っている。実際、牛は近眼なのだそうだが。
 僕らは入り江越しに見える港を見つめ、僕らの乗る船を見つけようとした。港には多くのヨットが係留されていて、どの船か見定めることはできなかった。
 9時半を回り、ツアーバスもほとんど走らなくなり、僕らは諦めて家へ戻った。

 

 

R17 (Baliにて3)   

 

 休日、一週間に一度の休みだ。朝8時に起きた。昨日は、シャワーを浴びずに眠りについたため、まずシャワーを浴びる。最近はシャワーを浴びずに寝ついてしまうことがある。そういった時は、たいてい夜10時以前に寝ついてしまった時で、翌日起きるのにはそんなに苦にならない。ただ、目を覚ました後、昨夜の時間を少々もったいなく感じてしまう。
 休日の朝8時、その日一日をどのように使ってみようかと考える。考えてみるとやることは沢山あるのかもしれないが、やりたいと感じるものはそんなに多くはない。今日もまたそういったことで時間を持て余し気味に感じていた。しかし、そう感じるのは気のせいで、休日の時間というのは、思ったより早く過ぎるものだ。とりあえず本でも読んでいると、もう午後になり、少し昼寝をすると夕食になってしまう。夕食を過ぎれば、一日もほぼ終わりになる。持て余すほどの時間など、どこにもないのだ。
 それでも、早く目覚めると、一日をどのように使おうかと考えてみる。そして、そんなにやりたいことが思いつかずに一日が過ぎてゆく。そういう日が7日目ごとに巡ってくる。そして、その日を思いながら6日間を過ごす。
 家のテラスからは、遠くに入り江が見え、その向こうに海が見える。海と入江の間には、細長い半島が横たわり、時々パラセーリングをしているのが見える。海は半島の向こうにほんの少しのひものようにしか見えないが、それでも時には白い波が見える。水平線は遠くにあり、霞んで見定めることはできない。

  

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