Between the waves  ~ 波のまにまに

いろいろな書き物を置いています

分類:書き物の大まかな分類 
概要:舞台となる年代、概要など 
年齢制限:読者の想定年齢 

風が伝える朝

分類:短編小説

時代:1990年代、バリ島、旅行記

年齢制限:20歳以上

 

 これは1990年代とその15年後のバリ島を舞台とした小品です。バリ島は古くから観光地として知名度が高く多くの外国人が訪れていましたが、1990年代ころからより一層、観光開発が盛んになり、空港の拡張やホテル開発が多く見られるようになります。そして、そういったプロジェクトに従事する外国人が増えていた頃です。その頃あったであろうバリ島の様子を主人公の心象風景を通して見る紀行文的なものとなっています。

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風が伝える朝
 

 ほこりが舞い、快い風が吹き込んできた。部屋から見えるバリの海は今日も白い波頭を立てている。パラセールが高く舞い上がり、鮮やかなウインドサーフィンが海を彩る。ビンタンビールをグラスに注いでポーチに出た。ビールの白い泡とボトルの緑が映える空の色だった。空に向かって高く伸びるパパイヤの実は、誰の干渉も受けることなく熟す時を待っていた。太陽はようやく傾きかけていたが、まだ空の高いところにあり、容赦ない南国の陽ざしを送りつづけていた。高台にある家の庭から見える丘の斜面では、光を背中一杯にうけて大きな牛が草を食んでいた。日焼けのためか背の方がかなり濃い色になっていた。牛は近くの木に、手垢で黒ずんだロープでつながれていたが、そんなことは気にもかけていないようだった。その傍らを母鳥に連れられた鶏の一団が通り過ぎていった。母鳥は、ついて行くのが精一杯の雛のことなど気にもかけずに丘の斜面を下っていった。しばらく鳥達の行方を追っていたが、そのうち谷の奥へ入り見えなくなってしまった。つながれた牛はまるでそこだけ時の流れが違っているかのように草を食みつづけていた。海には別の色のパラセールが上がっていた。遠い水平線の向こうにバリの最高峰グヌ・アグンの勇姿が望めた。私はグラスのビールを一気に飲み干し、ボトルの残りを注いだ。もう一度鮮やかな白い泡がたち昇った。

 

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  バリ島は東西に伸びたひし形をしている。南の角の先に同じようなひし形を少し丸くした半島のブキット・バドゥングがヨットのバランサーのようについている。家はこの半島の東側、ひし形の辺の北東部分にあった。半島の付け根にあるヌグラライ国際空港から湿地帯を抜けて、インドネシア政府が観光開発地区として整備をしているヌサ・ドゥア地区に至るバイパスを途中でそれた小高い丘の上に建っていた。バリの建築様式を取り入れた白い壁の建物だった。敷地を取り囲む塀にはライムストーンが使われており建物の白とライムストーンの白が空の色を背景に絶妙なコントラストを描いていた。敷地の北東側、グヌ・アグンのある方角にはサンガーと呼ばれる祠があり、毎朝バリ人の女性がゲジョットと呼ばれるバナナの葉でできた皿の上に白米と花などを乗せた供物盆を供えに来ていた。
 海は家の裏側のポーチから細い帯のように見えた。海の手前にはべノア・ハーバーの入り江が見え、海と入り江の間にはタンジュン・べノアの細長い岬が薄い層のように横たわっていた。乾期には対岸のサヌールの遥か向こうに、全てを見守るようなグヌ・アグンの頂きが雲間から望むことができた。

 

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 バリの季節は一年を通して大きく変わることはない。雨期、乾期の区別はあるが雨期にも雨が一日中降り続くことはなかった。雨はカレンダーが一年を終わる頃に多くなり、滝のような雨が数時間降り続く。時には道路が川のようになることもあった。そんな夜には、蜉蝣が発生し、開け放たれた電灯に霧のように集まってきた。そして、そんな蜉蝣を目当てにトッケーがでてくる。トッケーとはやもりを大きくしたような生き物で鳥のような声で「トッケー、トッケー」となく。生態もやもりのように人家に住み着き、そこの明かりに集まる昆虫などを食べていた。形態や生態からするとやもりの一種なのかもしれない。みかけはグロテスクだが見慣れてくるとなかなか愛着の湧く生き物だった。
 雨期の間にもハリケーンなどが来ることはなかった。そのため椰子などの植物はまっすぐに空に向かって育っている。椰子とバナナの木を数本持っていれば暮らしていけると言われたくらい気候は人に優しい。ただ、山の噴火からは逃れることはできない。それゆえバリの人々にとって山は神聖なものであり、彼らの運命は山と結びついていると考えられていた。島のなか身を置けば生きて行くのに必要な全てのものが手に入る。そしてバリの人々が最も必要とするものが共同体社会であり、島の外にも色々なものがあるが、彼らが生きてゆくのに必要な共同体社会はないのだ。バリの人々が島の外へ出ようとしなかったのはそのためであり、バリが閉じた世界と呼ばれる所以である。そこでは外の世界とは異なった価値観が成立していた。

 風は乾期の間、南東貿易風が吹き、雨期には北西季節風が吹く。

 

 

 バリ島の東側には、ウォーレス線という生物の生態系を隔てる目に見えない線がある。ロンボック海峡の上を通り、アジアとオセアニアの生物の進化論上の境界を示していると言われている。この線の東側ではオセアニア特有の有袋類などの特徴を持つ生物が生息しており、西側にはアジアの特徴を備えた生き物がいる。わずか数十キロの海峡だが、生物の進化にとっては大きな距離だったようだ。アジアとオセアニアを区切る線、ここはアジアの果てであり、始まりでもあるのだ。

 


 私がバリに滞在していたのは、イラククウェートに侵攻する前の年だった。バリではヌサ・ドゥアを始め、様々な場所でのホテルの計画や空港拡張など観光誘致のプロジェクトが進んでおり、それに携わる外国人の滞在が増えていた頃だった。私もヌサ・ドゥアのホテルプロジェクトのアーキテクトとしてこの地に赴いていた。仕事は週の内6日間、朝8時から夜遅くまでこなしていた。土曜の夜、観光客のふりをして街に出かけるほかはまさに仕事漬けの日々だった。プロジェクトに携わる人間を除けば、ホテルのスタッフの外国人ぐらいしか知り合いはなかった。観光地で仕事をしていても、観光客とは生活の場が違っていた。

 これまでにもバリには外国人の滞在はあったが、多くは文化に魅せられた人々やサーファーなど特定の分野の人々だった。それを遡るとオランダ人の貿易関係者や船員がこの島を訪れていた。外国へ出て行くバリ人よりも島に住み着く人の数の方が多かったようだ。

 

 その夜、私はサヌールにあるディスコ、No.1にいた。外国人が泊まるホテルが多い、サヌール通りに面して建っており、観光客がメインのディスコだ。もう少し北にあるスーベックのように、商売目当ての女がフロアの至る所にいるということはあまりなかった。それでも、何人かのそういった女が出入りしていることは事実だった。No.1はディスコといってもバーに小さなダンスフロアが付いているようなものだったから、そういった女はあまり寄りつかなかったのかもしれない。だいたい、バリのディスコにしてはそんなに客足の多いところではなかった。バーテンダーは、にわかじこみのマジックやマッチを使ったトリックなどをよく客に見せていた。タバコがテーブルの上を移動するマジックと、マッチを使い人の形を組みSEXの動きを模するのが得意のようだった。私は何回かここへ来たことがあるがその度に初めての客のように扱われた。客のことには感知しないようだった。
 この日も、いつものようにマッチのトリックを見せられていた。私は旅行者のふりをするのにいい加減疲れていた頃だった。入り口にガイドらしい男に連れられた日本人が一人現れた。黄色のポロシャツにジーンズという一目でそれとわかる格好をしていた。男は中を見渡した後、唯一のアジア人の客である私のほうに向かってきた。男は私とバーテンダーの話の中に割って入り、日本語で日本人であることを確認すると、自己紹介をし、木村直也だと名乗った。男は私によくここに来るのかと聞き、少し聞きたいことがあると言った。私は隣の席を勧め、男は頭を下げて座った。バーテンダーが英語で友達かと聞くのでそうだと答えておいた。男は20代半ばどう見ても30は超えていなかった。頭は短く刈っており、背の高いがっしりとした体つきだった。男は私にどれくらいバリにいるのかと聞いた。私は旅行者ではなくここに住んでいることを言うと、それが都合がよかったのか少し微笑んだ。男は人を探していると言い、女の写真を何枚か見せた。女は男とほぼ同じくらいの年齢だった。自分の姉だと言い、3カ月前にバリに旅行に来て以来消息がつかめなくなったと言った。私は、女に見覚えは無いと言い、バリに来た日本の女の子がバリの男と仲良くなって長く居着くことは良くあることだと伝えた。男は私の言葉に少し腹を立てたようだったが、姉がどのような人間で、訳もなく連絡を途絶えることなど有り得ないと言った。私はここはバリであり、日本とは違うことを言い、人は変わるものだと言い添えた。男はかなり憤慨したようだが、それでも礼儀を失わず、もし何か情報があれば教えて欲しいと滞在しているホテルの名を告げた。それは、ベノアにあるイギリス人が経営している小さいホテルだった。リピーターでなければ知らないようなホテルなので尋ねてみると、姉の泊まっていたホテルとのことだった。私は男に、ここで日本人の女の子がどの様に振舞い、現地の人間からどの様に思われているかを教えた。ベモの運転手を何人かの女の子で取り合いをしていることや、チェックインからベッドインしたベルボーイの話を。当然それは、ここを訪れる女の子の内の極僅かな話だろうがそういった話しほどよく伝わるのだ。男は少し認識を改めたようであったが、それは彼の姉とは別の次元の話しとして聞いているようだった。私は日本の領事館事務所やクタのディスコなど確認すべき場所を教えてやった。男は礼を言い席を立った。男が出て行くとバーテンダーが戻ってきた。バーボンのストレートを頼むと一気に飲み干した。それでも後味の悪さは消えなかった。私はこの島を訪れる数知れない旅行者のことを考えた。しばらくして、日付の変わるのを確認して店を後にした。
 私は表に待たせてあったキジャンに乗りこみ運転手に帰るよう告げた。キジャンというのは、日系の自動車会社が製造する、インドネシア国産のジープ型自動車のことだ。運転手はサヌール通りを南に向かって走らせた。サヌールはクタと違ってこの時間になると道を歩いている人もいなくなる。通りの照明が少なく、歩くのに適さないせいかもしれない。そのせいか、クタのような騒がしさはこの町にはなく、クタが若者の町とすれば、サヌールは大人の町といった感じになっていた。車はバリハイアットの前を通りすぎ、道なりに大きく右へ曲がった。このあたりは、マッサージ屋と称する家が並んでいるところだ。バリのマッサージ屋には2種類あり、それは日本のものの分類とほぼ一致する。マッサージ屋にしろ、ディスコにしろ、ある種の解放を求めるの人間は洋の東西を問わずかなりいる。そして、それを商売とする女たちもたくさんいる。ディスコで顔見知りになった女たちからは色んな話しを聞かされた。
 マッサージ屋のあたりを通り抜けてしばらく走ると、私たちはバイパスに出た。バイパスはヌグラライ空港の滑走路の端を通り、南のヌサ・ドゥアまで続いている。車窓からは、私たちに置き去りにされている椰子の林が見え、空を見上げるといつまでもついてきている星が見えた。私はマッサージ屋で過ごしている旅行者の男達とバリの男達を追い回している日本人の女の子のことを考えた。 彼らの求めているものを。車がスピードを増すにつれ、強い風が流れ込んできた。私の思考は自然に先程の日本人の姉に及んだ。彼女が求めていただろうことを。


 バリにはバリの価値基準がある。それを理解せずにここを訪れることは、誤解を生むことになる。特にそれが人間の一番の関心事であるSEXのことであればなおさらだ。バリでの性に対するタブーが他の国のものと違っているため、何らかの誤解が生じ、それが広く伝えられている事実がある。そのため、抑制された性の解放をここに求めに来る人々がいることも事実だ。だが、彼らが手に入れるのは、バリが提供する性の解放ではなく、古来から営まれてきた性の商売でしかない。彼らを相手にするのもバリ人ではない。しかしそのことは、彼らにとって目的をとげる上でのさしたる問題ではないのだろう。それに、そういった人々が求めるのもは、バリでなくとも手に入れられるのだ。


 翌日、目を覚ました頃には、日は既に高く昇っていた。プンバントゥは、私が起きたのを見とめると、いつものようにパパイヤのスライスとオレンジジュースをテーブルに用意した。プンバントゥというのは、いわゆるメイドのことであり、インドネシア語で「手助けする人」という意味がある。プンバントゥにはコキとチュチがあり、コキとは「料理をする人」、チュチとは「洗濯をする人」という意味がある。コキは料理と買い物を担当し、チュチは掃除、洗濯、その他雑用を担当していた。コキはバリではなかなか見つからないのでジャカルタから連れてきていたが、チュチはバリ人を雇い、コキに教育させた。コキの方が当然給料が高く、威張っていた。当時私は、他のプロジェクトの関係者と一軒家を借りて住んでいたが、4人でコキとチュチを一人ずつ雇っていた。
 朝食を食べながら、同居人が日本から持ってきていたアメリカ映画をビデオで見た。デトロイトの刑事がビバリーヒルズにやってくる例の2作目のものだ。せりふを暗唱できるぐらい何度も見たせいで、製作者の意図までわかるようになっていた。
 午後からはベノアのホテルのプールで過ごした。そのホテルはいつもひとけがなく、プールで過ごしている人もほとんどいなかった。 ホテルの帰りにドナバーというレストランに寄った。ベノアの岬の先の方は、観光客向けにパラセールやジェットスキーなどマリンスポーツを楽しませている場所がある。そこも昼間は「海の家」と化し、たくさんの観光客で賑わい、日本の海辺のような雑踏とした雰囲気になる。だが観光客が帰る夕暮れ以降は、海辺に静けさが戻り、ドナバーも夕暮れと波の音を楽しめる静かなバーに変わった。そんな気配が戻るころには、どこからか数匹の犬が現れて浜で静かに横になる。海岸を散歩しても、うるさい売り子に閉口させられることもなくなる。私はサテと呼ばれる肉片の串焼きとビールを注文し、静かな夕暮れの一時を過ごした。
 ドナバーからの帰りに、昨日の日本人が泊まっているホテルの前を通った。いつもと同じホテルだった。


                                                           
 あれから15年が経ち、私はバリ島を旅行者として訪問する機会を得た。サヌールに2泊、ウブドに3泊、ベノアに2泊の短い旅人として。サヌールのディスコNo.1はもう無くなっていた。かつてスーベックという大きなディスコがあり、多くの旅行者が南方の女の子を拾っていた店ももう何処にあったか見出せなかった。新しいスーパーマーケットやレストランができていたりしたが、面影は昔のままのサヌールだった。私はサッティヴァという小さなコテージに泊まったのだが、空港で乗ったタクシーのドライバーにはなじみのない名前だったようだ。空港からバイパスを飛ばし、あの頃の運転手なら右折した通りジャラン・タナウポソには入らず、バイパスを直進した。通りすぎているなと思っていると、途中からUターンし細い路地に入っていった。路地を抜け、サヌールの通り(ジャラン・ダナウタンブリガン)に出ると左折し、ハイアットの前を通りすぎた。ここで私は向きが反対であることを確信し、タクシードライバーにその旨伝えた。彼は、その先にも同じような名前のホテルがあるので、そちらへ向かっていたとのようなことを言ったが、私は久しぶりに聞いたインドネシア人の言い訳に、彼に残る純粋な部分を感じ取ることができた。若い頃には、こうはいかなかったなと思い、少しは私も熟してきたのかとも感じた。夜遅く着いたのだが、コテージのレセプショニストは私のことを待っていたようで、慣れた感じで私を確認した。いつものように繰り返される、日本からのフライト客の一人としての自分を感じた。
 チェックインが終わると、ホテルのスタッフが部屋へ案内してくれた。レセプションを出て、下へ降り、プール脇のレストランを通り、熱帯植物の生い茂ったプール脇の小道を回った2階の部屋だった。部屋は大きめの正方形の左手にクイーンサイズのベッド、その脇にソファ、ベッドの向かいに鏡とテーブルが置かれ、ベッドボードの上にはバリ人による抽象画が飾られていた。部屋の天井はバリ様式に作られており、部屋の周囲からの桟が天井の頂点に向かってくみ上げられた高天井となっていた。入り口の正面に大きな窓があり、そこからベランダに出ることができた。ベランダには椅子とテーブルが置かれ、先ほど通ってきたプールとレストランを見ることができた。プールサイドの樹木がちょうどよい目隠しになっていた。私はボーイに礼を言い、ドアを閉めた。
 翌朝、ビーチから昇る朝日に起こされた。日はコテージ脇のバナナ畑の奥にあるビーチのその向こうにあるロンボック海峡から昇っていた。水平線には雲がたなびき、空の色は既に薄い青色になっていた。斜めに射し込む黄色い光はその日の暑さを予感させた。バスルームからベッドルームまでが照らし出され、築後数十年経った部屋のしみや汚れを浮き上がらせていた。ベランダに出てみた。プールに人影はなく、レストランもまだ準備ができていなかった。とりあえずビーチまで行ってみることにした。潮の引いた浜では、漁師が網を広げていた。ビーチ沿いに立つホテルのプールサイドでは、スタッフが白いパラソルを広げ、その日のゲストを迎える準備をしていた。それは静かなそして確かな1日の幕開けを感じさせるものだった。ブラシをかけ、デッキチェアを並べ、そしてパラソルを開く。早朝、ゲストがまだ動き出す前にホテルで始まる作業は、デジタルとバーチャルな世界に慣れてしまった感覚を、ソリッドで感じることのできる世界へと少しずつ連れ戻し始めたようだ。太陽は土色のサヌールの浜を照らしだし、パラソルの白とホテルの幟の青、そしてその背後にある緑を鮮やかに映し出していた。海の色は白く光り、湾を超えて向こうにはベノア半島の緑も窺うことができた。
 朝食を食べた後、サヌールの街並みを見に出かけた。コテージからの細い路地のようなドライブウェイを歩いていると、洗濯屋の看板があった。長期滞在者向けの商売だろう。できる何かをしてその対価を得て生計を立てる。当たり前のことが、当たり前のようになされていることを感じた。サヌールの通りに出ることろで地面に座って若者がギターを弾いていた。私が通り過ぎる時、向かいのサングラス屋の方を指して何か言っていた。サヌールの通りを沿いを散歩し、まず、ハイアットに入ってみた。ゲートからホテルエントランスまでのライムストーンのドライブウエイの雰囲気は変わっていなかった。テロが頻発しているため、エントランスでは持ち物チェックを受け、ホテルの中に入った。古いホテルだが、古いままゲストを迎えてくれる。戻れはしないと分かっていてもあの頃の自分を探していた。ホテルの緑はかつてのままだった。名前も知らない木に南国の赤い花が咲いていた。花は、椰子にささげられた花束のように上に向かって咲いていた。
ハイアットを出て、また通り沿いを北に向かった。特にあてはなかったが、何かを見出したくて歩きつづけた。少し歩けば、通りで客待ちをしている男達が手で車のハンドルを扱う動作をし、タクシーと声をかけられた。断ると女と声をかけられた。走っているタクシーからもクラクションで客待ちの合図を受けた。私は、ひとつひとつの合図にいらないとの合図を返した。特にそれが煩わしいとも感じなかった。バリではこんなものなのだから。後になって感じたのだが、バリでは人との付合いの密度が濃いのかもしれない。客引きの呼びかけもひとつのコミュニケーションであり、日本でするように客引きを無視して通り過ぎることは相手にとっては意味のわからない、あるいは失礼に感じることなのかもしれない。後に、ヌサ・ドゥアのアンフィシアターの前で、くどい客引きの若者を怒鳴って立ち去った時、背中越しにJangan mala(怒らないで)という声を聞いた。彼にとって客引きは収入を得るための術であり、そのための交渉をしていると思っているのかもしれない。だから、その交渉を無視して通りすぎたり、怒って行きすぎることは彼らにとっては、通常ではありえないこととなのかもしれない。また、彼らにとって感情を顕に怒鳴ること自体があまり良いことではないのだろう。
 しばらく歩いて、スーパーマーケットを見かけたので入ってみた。手前の方に小さな店舗が並び、奥にスーパーが入っていた。スーパーでは倉庫の棚のようなラックに商品を並べていた。私は、馴染みのビンタン・ビールを探してみた。ビールは何種類があったが、ビンタン、アンカーそれともうひと銘柄が地元のもののようであった。さすがにフルーツ類は種類が多く、マンゴー、パパイヤを始め、リンゴなどもあった。ぐるっとスーパーの中を見て回った後、またサヌールの通りを北に向かった。ラ・タベルナなど何軒かのホテルに立ち寄ったり、通りを歩きながらかつての面影を探してみたが、どれが昔からあり、どれが新しいものかはほとんど分からなかった。通りがバイパスに突き当たる手前のかどのところまで歩き、通りを折り返した。時刻は昼をゆうに回っていて、日射しはかなり強くなってきていた。Dパックに入れた水を飲みながら水と帽子を持ってきた幸運を感謝した。通りを戻ると、さっきの客待ちの男達に声をかけられる。前に声をかけたかどうかはあまり覚えていないようだ。スーパーでビンタンとアンカーをひと缶ずつそれにアクア(ミネラルウォーター)の1.5Lを買った。夕食にはまだ早いが、コテージの近くまで戻ったところで、まだ客の入っていないレストランでナシ・ゴレンを食べた。コテージへ戻り、プールサイドでくつろいだ。心地よく日焼けしていることに気がついた。夜、ルームサービスでサテ・アヤム(鳥の端肉の串刺し)をオーダーし、昼間買ったビールを飲んだ。次の日、ウブドに行ってから飲むつもりでいたのだが、夕食が早かったこともあり、その夜のうちに2缶とも空けてしまった。ビンタンはアンカーよりクリアーであり、アンカーはビンタンより味の強いビールだった。残念ながら、サテはローストし過ぎでがっかり物であった。朝の朝食と会わせ、このコテージの料理レベルは改善の余地があるように感じられた。室内のメンテも多少必要ではあったが、ホテルの雰囲気が良いだけに残念だった。
 翌朝も太陽に起こされた。部屋で時間を使った後、朝食へプールサイドのレストランへ向かった。コテージの路地は箒がかけられ、プール・マネージャーがデッキチェアの並びを直していた。私はそれぞれのホテルスタッフに挨拶をし、テーブルについた。昨日より遅めの時間帯なので、テーブルはかなり埋まっていた。メニューはビュフェ・スタイルの昨日とほぼ同じものであったが、スタッフに焼いてもらったオムレツは前日よりはよくできていた。彼らスタッフの中で、本物のオムレツを知っている人が何人いるのだろうかと考えてみた。本物を知らずに作るというのはそんなに簡単なことではない。ミー・ゴレンなどインドネシア料理もあったが、特にクロワッサンは素晴らしかった。朝食の後、部屋に戻りチェック・アウトの準備をしていると、雨が降り出した。南国特有のスコールで、プールサイドの人達もいっせいに引き上げていた。
 部屋のある2階のバルコニーからは緑の合間を通して、プールとレストランを窺うことができた。プールを取り囲むように建てられたコテージはバリニーズ様式で、それぞれが2階建ての萱葺き屋根になっていた。椰子などの南国の草木がその間を覆っており、十数年を経て落ち着いた雰囲気が出来上がっていた。
 正午のチェック・アウトの時間になってもスコールが止まないので、レセプションに電話し、傘を持ってきてもらうよう依頼した。数分後、ビニール製のポンチョを着たスタッフがドアをノックした。ブルーのスポーツバッグを彼に任せ、Dパックを肩にかけて部屋を出た。
 レセプションでチェック・アウトをし、昨日頼んでいた車を待った。まだドライバーが来ていないようだ。レセプションの建物もバリ様式で建てられていた。建物の周囲に壁は無く、屋根を支える柱と柱の間に部分的に手すり柵が設けられていたが、基本的にはオープンエアーになっていた。そのためタイル貼りの床は雨で溢れていた。ホテルのスタッフが先端にラバーについたT字型の箒のようなもので外へ流し出していた。レセプション棟の近くに生えている椰子の木は、屋根を突き抜けて伸びていた。もとあるものを生かす。そういった心配りがうれしかった。しばらくするとドライバーがバンで現れ、ポンチョのスタッフが傘をさしかけてくれる中、ドライバーの横のシートに乗りこんだ。車はドライブウェイを抜けて、右折しサヌールの通りに入った。
 車は私のよく知らない路地を通り、バイバスに出た。次のホテルのあるクデワタンまでは、まっすぐ行けば半時間くらいだが、車が回っていけば1時間くらいはかかると思っていた。思った通り、車はチュルクやマスを回って行った。チュルクは銀製品で有名な町で、マスは彫像で有名な町だ。ツアーなどで観光客を立ち寄らせる買い物コースには馴染みのものだ。ドライバーには悪かったが、途中で入ろうとした店を断ってまっすぐホテルへと向かわせた。途中、ドライバーは午後3時からの親戚の結婚式に出なければ行けないといい、携帯電話で奥さんと何か話していた。3時に間に合わなくても後からでも出なければならいと言っていた。私は家で彼の帰りを待っている奥さんのことを考えてみた。偶然にも彼は私と同い年だった。私は携帯電話に興味を持ったのでどのくらい普及しているのか聞いてみた。大体みんな持っているとの答えだ。どれくらい費用がかかるのか聞いてみたが、十分彼らが賄えるもののようだった。
 車は、モンキー・フォレストの前を通り、ウブドの町に入った。さすがにこの辺りだと観光客の数が多いと思ったが、いつもよりは少ないとの答えだった。ウブドの通りを抜けて王宮の角を左に曲がった。ドライバーは目的地のホテルのチャハヤ・デワタの場所を知らないようなので、地図を見せて説明した。車はアップダウンのある道をクデワタンの方面に向かった。クデワタンの角で車は左に曲がった。しばらくするとアマンダリ(ホテル)の看板を通りすぎたので、ドライバーに道が反対だと伝えUターンさせた。アマンダリを通りすぎ、クデワタンの角を通りすぎるとチャハヤ・デワタの看板が見えてきた。時計を見るとちょうど午後1時だった。チャハヤ・デワタのエントランスに車を着け、ドライバーに礼を言い、料金を払った。車は午後の結婚式に向かって走り去った。
 私はDパックを肩にかけ、スポーツバッグを持ってレセプションに向かった。薄暗いレセプションにいる女性にチェックインであることを言い、宿泊のバウチャーを見せた。緩んだ雰囲気と粗雑な対応が気になった。代理店からの予約連絡が入っていないようで、他のスタッフと何か話していたいたが、部屋は用意された。このホテル売り物の渓谷側からは遠い方だが、上のプール脇の312号室だった。プールを使うにはちょうどよいロケーションだった。荷物をアンパックして、ホテルの中を見て回った。雨の後で渓谷を流れる川は茶色くなっていたが、眺めは素晴らしいものだった。記憶も定かではなかったが、以前とはプールの辺りが変わっているような気がした。
 夕方、ホテルのシャトルバスでウブドに出た。ウブドの王宮前でシャトルバスを降りると、いきなりバリ衣装の男が近づいてきたので、急いで別方向へ向かった。王宮沿いを北に向かって歩いてみた。人通りの多い方とは別方向だ。レストランでメニューをチェックしながら今日の夕食の当てを探した。しばらく歩いて、店の数も少なくなったので、もと来た道を戻った。王宮の角で道を渡ると客待ちの白タクの男達に声をかけられた。それぞれを断って道沿いをぶらぶら歩いてみた。しばらく歩いて、サッカーグラウンドの辺りまで来たので、道の反対側を引き返した。王宮の角を今度は右に曲がりマーケットの前を通った。またしばらく歩いて、道路の反対側を引き返した。途中、子供を連れたバリの衣装を着た女性に、この近くにあるバビ・グリ(豚のロースト)で有名な店のことを聞いた。あるにはあるが、今日はもう閉まっているだろうとのことだ。店の名前を聞いたが、特に名前はないと思うとの答えだった。女性に礼を言い、また王宮の角まで戻ってきた。例のバリ衣装の男がまたバスを降りた観光客に声をかけていた。どうやらレゴン・ダンスか何かのチケットを売っているようだった。
 私は、王宮沿いの道をまた北に向かい、先ほどめぼしをつけていたレストランに入った。道より高台にあり、道路からのスモッグにも煩わされず、テーブルにつくと道を見下ろせるレストランだ。中に入ってわかったが、レストランの奥は民家の庭になっていた。私は道を見下ろすよりも民家の庭を眺められる場所に席をとった。民家の庭は緑が多く、鳥かごがあり、祠もあった。やはり、時間が早いのか私の他にはまだ客がいなかった。
 メニューの中からSサイズのビンタンとポークサテ、それに大ライスを頼んだ。ウェイトレスの立ち振る舞いも申し分無かった。ビンタンがサービスされ、細長いグラスにきれいな泡が立った。食事を待つ間、テーブルの脇にある棚を見ると色々な日本語のバリのガイドブックが何冊か置いてあった。そのなかの一冊を読みながらサービスを待った。ガイドブックはバリに詳しい人が書いたようで、かなり参考になった。ウブド近くのお勧めの場所やローカルなワルン(食堂)をチェックした。食事が運ばれた時、ウェイトレスに確認すると、レストランのオーナーが東京に住む日本人だとのことだった。料理は残念ながら合格サインを出せなかったが、親しみの湧くサービスには満足した。食事を終えて王宮の角でホテルのシャトルバスを待った。雨が降り出したが、シャトルバスを降りるときドライバーがホテルの傘を持たせてくれていたので、それをさして待った。帰りは、スイスから来たという親子と一緒だった。
 ホテルに戻り、プールで泳いだ。雨期のため雲が多いせいか星はあまり見えなかったが、雲間を見え隠れする月を見ることができた。水の中では、ダイバーズウォッチに付けた温度計の青地の文字盤の色が一層美しかった。
 翌朝、目が覚めるととりあえず天気を確認した。部屋はやはり正方形で入り口の右手奥にクイーンサイズのベッドが置かれていた。部屋の中は薄暗かったが、ベッドの向かいには大きな窓があり、カーテンを開けると渓谷の緑が美しかった。この窓の脇にベランダへ出るドアがあった。私は、ベランダへ出てみた。昨日よりは雲が薄くなっていて、遠くに連なる山並みを望むことができた。
 私はホテルの中をぐるっと回ってから、朝食を採りにレストランへ向かった。レストランは渓谷に向かって先端の一番眺めの良いところに造られていた。そしてここから望む渓谷はまさにシュピースなどが描いた幻想的なバリの風景だ。折り重なる水田、渓谷の斜面から伸びる無数の椰子の木。部分を見ると眼が眩み、全体を見ると引きこまれそうになる。調和と破壊が同時に起こっているような不思議な風景だ。そして、この風景は十数年経ても変わっていなかった。
 私は、朝食にフルーツジュースにオムレツ、クロワッサン、フルーツ盛り合わせを食べ、最後にバリコーヒーを飲んだ。レストランのスタッフは、レセプションほどルーズな感じは与えず、好感が持てた。全体として、ホテルのスタッフは地元の人を地縁で雇っているような感じで、それがルーズな感じを与えていたが、ある種慣れてしまうと心地良い部分でもあった。
 ホテルは、いくつかの客室が庭を介してつながっているようにデザインされていた。レセプションから私の部屋までも、いったん外を回って感じの良い路地をぬけてプールサイドの部屋に入るよう作られていた。朝散歩をしていると、その路地で鶏の親子がなにかを啄ばんでいたりするのだ。体が小さいのだが、体形の素晴らしいきれいな白色の雄鶏を見かけることもあった。
 朝食の後、ホテルの脇から伸びる道を辿ってアユン川まで降りてみた。濡れた苔が滑りやすく注意が必要だった。途中から、地元の若者が近づいてきてガイドをするように付いてきた。川岸まで降りると、向こうに渡る手作りの橋があったが、渡らずに戻ってきた。もう少しのんびりしたかったが、こう付いてまわられるとそうもいかない。この若者によると、以前のチャハヤ・デワタは、何年か前に一度デンマークかどこかの人に買収され、その後、リノベーションをやったようだが、何年か後にまたインドネシア人に買い戻されたと言っていた。
 かなり暑くなってきたので、ホテルに戻り、プールにつかった。何往復化してプールサイドで寝そべっていると、電動のこぎりを動かすような音が聞こえてきた。しばらくすると白い煙が立ち込めて、殺虫剤を撒いていることがわかった。プールの中に逃げ込んだが、外が真っ白になり、たまらず部屋へ戻った。雨期だのに虫が少ない理由がよくわかった。殺虫剤はバスルームのルーバーを通して中にも流れてきた。
 私は午後のシャトルバスでウブドへ出かけることにした。昼飯は、昨日のレストランでチェックしたバビ・グリの店だ。バビ・グリの店はWarung Ibu Oka(オカさんの店)となっていたが、シャトルバスの着く王宮脇にあった。午後1時半頃着いたのだが、店はほぼ満席だっだ。インドネシア人も外国人もいた。店の入り口では届いたばかりの豚の丸焼きが解体されていた。私はバビ・グリとボトル入りアイスティーを注文した。席はバリ建築のような建物中に靴を脱いで上がったところにしつらえられていたが、私は靴を脱ぎたくなかったのでその手前の土間に用意されたプラスチックのテーブルに着いた。しばらく待っているとバビ・グリが皿の上にしかれた油紙の上に盛られて出てきた。豚の丸焼きのそれぞれの部分を少しずつ、ライスと一緒に出されたものだ。皮、肉のロースト。内臓などその他不明のものなどが入っていた。豚だけに油が強く、味付けは辛目のものだ。ライスと合わせながら食べ、アイスティーで辛さを調節した。内臓系は少し抵抗があったが、残らず食べた。この食事で、ディープなバリ料理について行けそうな気がした。
 食事が終わると、前の日と同じようにウブドの町をぶらついた。ウブドの通りをモンキーフォレストまで歩き、折り返した。サヌールのホテルでも抽象画がかかっていたが、以前のようなバリ風の描き方だけではなく、抽象画やデザイン画のように描いた絵も多く売られていた。ただ、なかには同じモチーフを真似しただけのものなど明らかにお土産用のものも多く、良いものとそれ以外が混在していた。人通りはそれなりにあったように思えたが、地元の人に聞くとやはり観光客数は減っているのだと言う。英語の4文字言葉で「くたばれテロリスト」と書いたTシャツを着た男を見かけた。この町も傷みかけているのだなと思った。
 細い歩道と車の多い道をぶらぶら歩くのは難しく、途中横道にそれてみたり、居心地の良さそうなホテルに入ってみたりしたが、すぐに王宮のところまで戻ってきた。特に行く当てもなかったので、昨日のレストランへ行ってみた。昨日と同じ席に座り、バナナジュースを注文し、昨日のガイドブックを読んだ。後で行ってみたいWarungと呼ばれる地元の食堂を何軒かチェックした。そのうち1軒はチャハヤ・デワタの近くのようなので、明日行ってみることにした。また、この日の夕食は王宮の前を東に歩いてひとつめの角を左に入ったワルンで食べることにした。また、ガイドブックに王宮から西に行った道の北側にライス・フィールドを眺められる道があると書いてあったので夕方近くになっていたが、行ってみることにした。王宮の前に道を西に向かうと、最初に北に向かう石畳のような道があったのでそこに入ってみた。道の入口にそれらしき標識もあった。道には沢山の人達の手形が日付とともに入れられたものが敷かれていた。いろんな国の人達のものがあった。何のための記念かよくわからなかったが、道の整備に会わせて行ったものだろう。しばらくは道の両側に店やレストランが並んでいた。CDショップでは、若者が膝の間にはさんで奏でるドラムを叩いていた。しばらく歩くと民家ばかりになったので、見当違いと思い折り返した。王宮の前を通る道まで戻り、適当に西に向かった。しばらく歩いたが、それらしい道が見つけられずイバホテルを通りすぎ、チャンプアンの橋まで来たので折り返してもとに戻った。イバホテルの脇から川の方へ向かう道に入り、神社の前で話をしていた高校生ぐらいの若者達にライスフィールドへ行く道を聞くと、神社の脇を通っていけるとのことだった。神社の脇を沿っている薄暗い道を進むと、若い二人が体を寄せ合っていた。彼らの脇を通ってしばらく進むと次第に道が開けてきて畑の中に出た。そのまま道は川沿いの渓谷の稜線に伸びていた。私が本来行こうとした場所は反対側の川を隔てた向こうのようであったが、途中渡る橋でもあればと思い歩きつづけた。緑の稜線の中の一本道を歩くのは気持ちよく、少し歩いただけでこの風景が見られることに驚いた。向こうから頭に沢山の稲の束ようなものを乗せた女の人が歩いてきた。人が歩いて来るということは向こうに何かあるかと思い歩きつづけたが、緑の景色が変わる様子もなく、向こうへ渡る橋もなさそうだった。この素晴らしい景色の中を歩きつづけたかったが、夕暮れが近づいてきたので、適当なところで引き返すことにした。途中、先ほど道を教えてくれた若者たちとすれ違ったが、彼らが当てもなくさまよう外国人を心配して様子を見に来てくれたような気がして、彼らの気持ちがうれしかった。王宮の前を通る道路を戻り、もう一度先ほどの石畳の道に入ってみた。今度はもう少し奥まで歩き、道が大きく左へ曲がるところを過ぎて歩いてみたが、ライスフィールドらしきものは見かけられなかったので道を折り返した。戻る途中、CDショップの前でさきほどの若者がまたドラムを叩いていた。私は彼に目で挨拶をし、彼も挨拶を返してくれた。チャンスを与えられれば十分通用する彼のドラムを聞きながら、サヌールのギターの若者のことを思い出した。
 王宮の角に戻った頃には日は暮れかかっていて、雨も激しくなってきていた。私は先ほどガイドブックで確認しておいたワルン・タマンへ向かった。店に入り、入り口近くの席に座った。外を背にして座ったが、オープンエアーなので外の雰囲気を直に感じることができた。私はメニューから鳥料理とライス、ボトル入りがなかったので普通のアイスティーを注文した。外は次第に暮れかかっていたが、まだ明るく、店の中の客は私だけだった。雨は当分止みそうもなく、入口の木の大きな葉を濡らしていた。店の向かいではバイク修理屋が店じまいをしていた。空を見上げると途切れなく続く雨脚が見え、店の庇からも雨しずくが絶え間なく落ちていた。
 しばらくすると料理が運ばれてきた。帰りのシャトルバスのまでは十分時間があるので、時間をかけて料理を楽しんだ。外は次第に薄暗くなり、通りが街灯の明りに照らされ始めた。近所の娘が注文していた夕飯のおかずを取りに来たのか、料理の包みを受け取って向かいの路地に消えて行った。家族で供にする夕食を想像してみた。雨脚が街灯に光って、輝いて見えた。静かな時間が流れて行った。
 シャトルバスでは昨日のスイス人の親子とまた一緒になった。スイスからの距離はかなりあるので、どれくらい時間をかけてきたのか聞いてみると、シンガポール駐在とのことだった。家政婦のいる少年のシンガポールでの生活を想像し、彼には私も同じに見えているのだろうなと思った。ホテルに着くまでに、例のガイドブックに載っていたワルンの場所を確認した。
 朝、朝食の前にホテルの前を通る通りを歩いてみた。北はクプクク・バロン(ホテル)まで歩き、南はクデワタンの交差点まで行き戻ってきた。午前中はプールで過ごした。プールサイドで寝そべっていると、スイス人の親子もやってきた。少年はプールで遊んでいたが、母親はパソコンを使っていた。昼食はホテル近くのワルン Ib.Mankusへ向かった。ナシ・チャンプールとテ・ボトル(ボトル入りアイスティー)を頼んだ。かなり辛かったのでテ・ボトルの甘さがちょうど良かった。店の客はほとんどインドネシア人で半分ぐらいは観光ガイドや運転手のようだった。食事を食べ終わる頃、日本の女の子のような二人連れが若いガイドに連れられてやって来た。
 昼食後、一旦部屋に戻ったが、しばらくしてアマンダリまで行ってみることにした。ホテルからアマンダリまでは歩くと30分くらいかかった。アマンダリにつく頃には雨が降り出していた。雨のため歩き回るわけにはいかなかったが、レストランの横を通ってプールに出てみた。後にバリの沢山のホテルが真似ることになった渓谷に流れ込むように見えるプールだ。プールの背後にあるレストランが気になったせいか、かつてほどの新鮮味はなかった。プールの先の渓谷を眺められるテーブルまで行ってみた。ここでも渓谷美が美しかった。プールサイドまで戻ると、脇の建物で少女達が踊りの練習をしていた。音楽に合わせながらバリ舞踏独特の手と指の動きで輪になって踊っていた。アマンダリを出てフォーシーズンズまで行こうとしたが、途中で歩道が無くなり、あきらめてホテルへ戻った。夕方のシャトルバスでウブドへ出た。モンキーフォレストにつながるウブドの通り沿いにあるカフェで夕食を採った。シャトルバスを待つ時間があったので、王宮の脇の道を北へ歩いて行ってみた。しばらく歩くと左手に神社があり沢山の人が集まっていた。もうしばらく歩くと、右手にレゴンダンスを見せる舞台があった。さらに先を進んでいると、前の方から大勢のお祭りの行列が向かって来ていた。行列はかなり大きそうだったので、引き返すことにした。先ほどの神社の前では、より沢山のバリ衣装の人達がいた。王宮の角まで戻ってくると、今度は反対側から大きな行列が上ってきた。その行列を行き過ごし、シャトルバスが来るのを待った。シャトルバスが現れると私は急いで乗りこんだが、Uターンする場所がなく、しばらく行列に付いて行った。適当なところでシャトルバスはUターンし王宮の角に戻ってきた。他に拾う客があったようだが、見つけられなかった。ホテルに着くと、運転してくれたスタッフに礼を言って部屋に引き上げた。
 翌朝、朝食を採ってからパッキングをした。午前中を部屋で過ごし、チェックアウトした。ホテルに頼んでいた車に乗りこんでベノアに向かった。車はタクシーではなくホテルの車だった。運転手もホテルのスタッフで途中彼の家の前で止まり、彼のこどもを乗せた。こどもに飛行機を見せてやりたいんだと言っていた。私が運転席の隣に座っていたので、その子を後ろの席に座らせた。空は快晴で、南国の日射しがまぶしかった。彼とそのことを話していると、とても暑くなりそうだと言った。前の日は休みで家族と一緒にいたのだが、曇っていて過ごしやすかったと言っていた。私は彼と、天気のこと、バリのこと、ホテルのことなどを話したと思う。ベノアまではおよそ1時間半かかるのだが、途中振り向くと、男の子は疲れたのか寝てしまっていた。
 空港から南に伸びるバイパスからそれた高台に、かつて住んでいた家があった。途中、そこに入る道を探したが、バイバスが拡幅され多くの店が道沿いにできていたためどこかはわからなかった。バイパスをそれ、車はベノア半島に入った。ベノアにも新しいホテルが沢山できていたが、かつての面影と違和感なく馴染んでいた。わたしの目指すホテルも新しいものだった。ベノアの通り沿いにあり、コンラッドを過ぎてアストンの手前にあると地図にあった。その旨を彼に伝え、通りから見える看板を確認しながら走ると、すぐに見つけてくれた。車をホテルに入れると大きな階段が目に入った。ホテルに入るにはこの階段を昇らなければならなかった。運転してくれたスタッフは私に先に行けと言ったが、私はそこで荷物を受け取り、礼を言い、自分で持って上がった。彼は私を王として扱おうとしてくれていたのに、彼の気持ちをうまく汲めず何か申し訳ない気がした。こどもが飛行機を見て楽しめればいいと願った。階段を昇ったところでカウンターがあったので、チェックインの旨伝えると、そこはベルのデスクのようで、チェックインは後ろの階段を降りたデスクだと伝えられた。スポーツバッグをそこに預け、階段を降りてデスクに向かった。チェックインはデスクに座ったスタッフと向き合って行われ、デスクの近くには簡単なライブラリーがあった。デスクの横にはレストランがあり、まっすぐ海が望めた。レストランとビーチの間には長方形のプールが海に向かって伸び、それを囲むように建物が建っていた。私はチェックアウトの日のフライトの時間が遅いので部屋を夜の9時ごろまで使いたいと伝えた。彼は後ほどオフィスに確認して連絡すると約束した。
 私の通された部屋は、最上階4階の海に近い1403号の部屋だった。部屋の中にバスタブはなかったが、クイーンサイズのベッドの斜め上に衛星放送のマルチチャンネルが見られるテレビがあった。部屋の中はリゾートには珍しくブラウンを基調とした落ち着いた雰囲気のもので、バスルームも黒御影のような石貼りで仕上げてあり、どちらかと言うとシティ・ホテルの感じがした。デザインはよかったが、ドアの建具などの閉まりが気になった。
 荷物をアンパックするとホテルの中を見て回った。部屋につながる廊下は建物の外周を回るように造られていて、廊下の外側は木製のルーバーで目隠しをしていた。廊下の海側のつきあたりからはベノアの海が眺められ、ヌサドゥアの島も見ることができた。建物の屋上ではまだ工事が行われていて、屋上に出ることはできなかった。廊下を戻り階段を降りてプールサイドに出た。数十メートルあるプールの向こうに先ほどのレストランが見え反対側はビーチだった。私はビーチに出てみた。眩しい光、青い海。そしてここに帰ってきた。私は海水の感触を確かめた。遠くビーチ沿いを眺めると、何棟もの大きなホテルがそびえホテル毎に色の違うパラソルと幟が風の中で泳いでいた。
 部屋へ戻ると、先ほどのレセプショニストから連絡が入り、夕方の6時までの利用と夜の10時までの利用の場合の金額を伝えてくれた。10時までの利用でもリーズナブルであったので、10時まで使いたい旨伝えた。ホテルがオープンしたばかりで手に着かないところもあったが、丁寧にひとつひとつ対応している姿に好感が持てた。
 部屋でしばらく過ごした後、ビーチを散歩してみることにした。翌日はヌサ・ドゥア方面に行くつもりであったので、ホテルを出て北に向かった。アストン、ビンタン、ミラージュ、ノボテルなど大型のホテルが続いた。かつてのドナバーの姿を探したが、面影すら見つけることができなかった。どこかのホテルの中を通り、ベノアの通りに出、折り返した。夕食を何処でとるかを考えながら店の入口に掲げられたメニューを見ながら歩いた。ホテルの前を通りすぎ、コンラッドの前辺りで歩道が無くなった。バリロイヤルを見に行きたかったのだが、途中であきらめた。
 ホテルに戻り、プールで過ごした後、先ほどと同じようにビーチ沿いを散歩し、ビラ・ビンタンの中を通りベノアの通りに出て戻った。ホテルの近くのカフェでナシゴレンビンタン・ビールの小を頼んだ。客は私だけだったが、食事の途中でバリの音楽を流してくれた。
 翌朝、早めに朝食を終え、暑くなる前にヌサ・ドゥアに向かった。ビーチ沿いを南に下り、1、2時間で行けると読んでいた。ビーチ沿いをぶらぶら歩きながら写真をとったりした。クラブ・メッドの芝生は相変わらず美しかった。8時頃にホテルを出て、ヌサ・ドゥア・ビーチホテルについたのは10時ごろだった。ヌサ・ドゥア・ビーチホテルの中をぐるっと見た。いつも使っていたヘアーサロンの辺りは改修されていてなくなっていたがホテルの玄関にある割れ門などはかつてのままの姿であった。ホテルの宴会場もかつてのままあり、当時いたドイツ人のマネージャーのことを思い出した。
 ヌサ・ドゥア・ビーチを出て、ヌサ・ドゥア(2つの島)に向かった。かつてはこの辺りでは土産物売りやマッサージ屋がうるさく付きまとったものだが、今はそう言ったことは控えさせられているようだった。ヌサ・ドゥアは外国人向けに開発されたエリアだが、この辺りだけは地元の人に解放されていて海辺での時間を過ごしている地元の人達もいた。
 さらに進んで、11時ごろにはグランド・ハイアットに着いた。ビーチからメインロビーの方に入ってみた。ロビーの辺りは新築当時のままだった。当時のオープンに追われるスタッフのことを思い出した。もう、当時のスタッフもいないだろう。オープニングセレモニーの時にはこの辺りは大勢の人で溢れかえっていた。ホテルにはそれなりにゲストは入っているようだが、ホテルの西半分の棟は使われていなかった。リノベーションをしているようだった。そのため、ホテルの全てを確認することはできなかった。
 ビーチに戻り、ヌサ・ドゥア方面に戻った。アンフィシアターの脇からヌサ・ドゥアの開発地区の中へ入ったが、アンフィシアターも閉まっていたし、アメニティ・コアと呼ばれたショッピング街もほとんど閉まっていた。溢れるほどの小さな赤い花をつけた木がアンフィシアターの入り口にあった。木から溢れた赤い花びらはアンフィシアターの入口に赤い絨毯を敷き詰めていた。アンフィシアターのオープニングの賑わいが懐かしく思えた。赤い花びらを眺めていると若者が近づいてきて、タクシーは要らないかと聞いてきた。私は歩きたいと言って断った。ウブドかタナロットまで行くと言っていたが、もうウブドにもタナロットにも行ったと答えた。いつまでいるのか聞いたので、日曜に帰ると答えると、明日か、と言った。もうその頃には、曜日のことなど気にもかけていなかったことに気づいた。明日が帰る日だったのだ。開発地区の中を歩いているとリスを見かけた。先ほどヌサ・ドゥア・ビーチホテルの中庭でも見かけたが、どうやら新しい生き物が定住しているようだ。
 ヌサ・ドゥアの開発エリアの正面入り口に向かった。入口では警備が一台ずつ入ってくる車をチェックしており、長い列になっていた。割れ門の脇を通り外に出た。この辺りには多くの土産物屋やレストランが並んでいる。かつて住んでいた頃は車で通りすぎるばかりだったので足を踏み入れるのは初めてだった。店先をぶらぶら眺めながらトラギアスーパーマーケットまで歩いた。いつも買出しをしていた店だ。記憶とはいい加減なもので、どことなく覚えていたものよりも小ぶりに思えた。トラギアの辺りも変わっているように思えた。トラギアの中に入った。記憶に少しずつ修正が入っていった。スーパーの中をぐるっと見て、奥の果物売り場でマンゴーとランブータンを買った。トラギアを出ると雨が降っていた。かつて皮のコートをオーダーした店がトラギアのそばにあったのだが、もうその姿を見つけることはできなかった。
 トラギアの前で道路を渡りヌサ・ドゥア方面へ戻った。開発地区の入り口近くでレストランに入り昼食を食べた。この頃にはもう雨は上がっていた。開発地区に戻り、ウエスティンに入ってみた。当時、このホテルは日系各社が出資したヌサ・インダ・ホテルとしてオープンし、オープニングセレモニーにも多くの駐在日本人が訪れた。その後何度かオペレーターが変わったようで、現在はウエスティンとして運営されていた。私は、ウエスティンがどの様にホテルを変えたか興味があった。入口で金属探知機によるチェックを受けてホテルに入った。エアコンの冷えた空気が気持ち良かった。通例バリではレセプションなどパブリックエリアはオープンエアーにしてオペレーションに負担をかけないようにするものなので、ここのように閉めきった大空間を冷房で冷やすことにはオープニング当時から批判があったのだが、汗かき歩いてきたものにはありがたかった。レセプション前に作られていたバリ風の東屋からは萱葺きの屋根が取り払われていたが、その他大きな変化は見られなかった。客室は小ぶりに作られているのだが、パブリックのエリアは石をふんだんに使い高級感が溢れていた。入って左手にはガラス窓の向こうに落差2,3メートル幅4メートルぐらいの滝があった。水飛沫が光り輝いて、これから始まるリゾートでの休日への期待感を高めていた。
 ホテルの通路からプールサイドに出てビーチ沿いの遊歩道に出た。私は遊歩道を歩いてホテルに戻った。ホテルに戻ると午後の日差しに疲れたので午睡をとった。目が覚めた時、夕食後に食べる予定だったマンゴーとランブータンが程よく冷えていたのでたいらげた。夕方、昨日と同じようにビーチ沿いを散歩した。土曜の夕方のためか地元の男達がビーチでビールを飲んで楽しんでいた。昨日と同じカフェで夕食を食べ、夕食の後、店の人に教えてもらった地元の果物屋に行きマンゴーを買った。すぐ食べられる物を頼んだのだが、買った後見ると虫食いの穴があった。少し気になったが店の人を信じそのまま帰った。後ほど、食べてみると中はぐちゃぐちゃで食べれたものではなかった。親切で選んでくれたものだからと自分に言い聞かせたが、場違いな一見の客として扱われた感はぬぐえなかった。
 また、翌日着る服を探していて、白のラコステのポロシャツが無くなっているのに気づいた。バリのホテルで物が無くなるのは時々聞く話だが、まさかと思った。白いものなのでシーツか何かに紛れたかもしれないとも考えられた。ただ、後日、ホテルスタッフの服を来た若い男が、新しいタバコを口にくわえて部屋掃除の台車を押しているのを見かけた時、事情がわかった気がした。そうやって客のタバコをくすねるようなことがあるであろうことを。ただ、このホテルでは二人ペアで部屋の掃除を行っているようなので、その男自体が正規の業務をしているのかどうかもわからなかった。
 翌朝、朝食前にベノア半島の先端の方まで歩いてみた。ドナバーや以前あったホテルの面影を探したが、やはり見つけることはできなかった。ベノアのこの辺りでは、パラセールなどのボートを使った遊びさせる店が多かった。ビーチで店開きの準備をしている人からパラセールをやらないかと聞かれたが、もう全てやり尽したと答えた。いつ帰るのかと聞くので、今日帰るというと、残念だと言った。ビーチが連なる先端まで歩いたが見知った風景を見つけることはできなかった。ビーチを戻っていると、見知らぬ人影を見つけた犬が吠えていた。ホテルに戻り時間をかけて朝食を食べた。その後、ホテル周りを散歩し、部屋に戻って海で泳ぐ準備をした。バリの海を楽しんだ後、ビーチにあるデッキチェアに腰掛けて遠くの水平線を眺めていた。沖の浅瀬に人の固まりがあり、順にパラセールを装着するとボートに引かれ大空へ舞い上がっていた。部屋に戻った時は午後を大きく回っていた。気が付けば顔と体の前面が赤くなり、日焼けしていた。一旦部屋に戻った後、いつも行くカフェの並びの店に行き、アクアの1.5Lとチーズリッツを買った。その後は部屋で過ごした。インドネシアのテレビ放送もかつてとは様変わりしていた。あの頃は国営放送が一局だけで、外国人の私たちが見てもおもしろいものはなかった。今では、ジャカルタの全国放送やバリのローカル放送など沢山の局が放送していて、日本のものよりおもしろいドラマもあった。ビーチでビールを飲んでいた男たちのことや放送のことを考えると、インドネシアも少しずつ豊かになっているのだと思った。夕方までには荷物もパックし終えていた。夕食をいつものカフェでとり部屋に戻った。ホテルスタッフによるとタクシーはすぐにつかまるとのことだったので予約はしなかった。
 午後9時ごろホテルをチェックアウトした。レイトチェックアウトの代金を払うと、タクシー代と出国税の他、僅かばかりしか残らなかった。ホテルの入り口で警備にタクシーを止めてもらった。空港へ向かう途中、タクシーの運転手はジンバランに寄らないかと誘ってきた。ジンバランはラグジュアリー系のホテルがオープンした後、クタにあったレストランを真似て魚と調理法を選んで客に提供する店が多くできた場所だ。ぼったくりの店が多いことで知られていた。食事は済ませたと言うと女はどうかと言ってきた。時間が無いと伝え断った。運転手は日本人のガールフレンドがいて沖縄出身だと言っていた。今は日本に住んでいると言っていた。男は日本人の女の子は肌が白くていいといっていた。空港に着くと約束の代金を払ってタクシーを降りた。
 フライトまでには時間があったがチェックインを済ませ、出国手続きを終えた。空港内をぶらぶらしながら、残りのルピアで買える物を見て回った。マンゴーの干し物とバリコーヒーの小パックを少し値切って、持っている全てのルピアと交換した。まだ時間があるのでボーディングエリアの入口で待った。しばらく待たされた後、ようやくボーディングエリアに入ることができた。ボーディングエリアは狭く、次のフライトを待つ人で溢れていた。空いていた椅子に座り、時間が来るのを待った。近くでは、大きな声で旅行の余韻を楽しむ家族連れがいた。ボーディングコールを受け搭乗口に向かった。私はまだバリマジックにかかっていたが、心を残さないように気をつけた。

 その日もJL720便は定刻通りヌグラライ空港を飛び立ち、ベノア湾の上で大きく旋回し北に向かった。
 
 定刻よりも少し早く成田に着いた。天気は晴れ、気温はその時期にしては暖かい方だった。成田から都心までの電車の中、腹の減っていることに気づきバックの中からチーズリッツを出して食べた。まだ、旅は終わっていなかった。

 

はじめに

 このブログは、長く書き留めていた小説などの書き物を置いておく場所として開設しました。書いたものの内容は、小説として長く時間をかけたものもありますが、多くはその時々に思いついたものを物語風に書き綴ったものです。特に公開する予定もなく書いていたものなのであまりまとまりはありません。長いものでも数分で読める程度のものがほとんどなので、よろしければ時間の空いた時にでもお付き合いください。

 

ブログタイトルについて

 いつも思うことなのですが、ある場所に忘れ物をして後からその場所に取りに行った時、そこは同じ場所なのでしょうか。時間の変化に大きな影響を受けないものは、取りに戻ったときに手に入れることができます。でも、短い時間の変化で大きく変わるものは、後で戻ったとしてももう手に入れることはできないでしょう。

 空間の構成要素がXYZ軸(左右、上下、前後)と時間でできているとしたら、時間を除いた空間の位置(座標)が同じだとしても、時間の経過により別の位置(座標)にいると考えられます。時間とともに変化し、(時間を含めた)場所を移動しているのです。イメージ的には少しずつ変化するカットが時間ごとに作成されているアニメーションみたいなものかもしれません。私たちは時間に合わせて次のカットに移っているのです。

 よく物質は粒子であり波動でもあるといわれます。波の上に浮いているものを見た時、そのもの自体は波の上にあるだけですが、波を含めて全体を見ると上下に動いています。時間や空間を気にかけなければそこにあるだけでも、時間を含めて空間全体を見ると少しずつ動いているということです。そう考えると、存在は波の上にあるようなものかもしれません。

 

 時間とともに変化する空間の中で、私たちは何か忘れものを取り戻すかのように同じ場所に戻って来ることがあります。しかし同じ場所でも別の時間に訪れれば周囲の環境も異なり、以前訪れた場所と同じではありません。そこで何かを忘れていたとしても、手に入れられるとは限りません。私たちは時の流れという一方向の流れに乗った永遠の旅人であり、存在は波の上に漂う一葉のようなものです。このブログのタイトルはそういった思いからつけたものです。

  

 

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ここに書かれているものについて

 先に書いたように、空間の中にある物は見方によりいろいろな側面あります。そのいろいろな側面を持つものを私たちは時間や範囲を限定してとらえようとします。また、意識して客観的に見ようとしても主観というバイアスがかかってしまいます。

 ここにあるものは、私が波の上で揺られながら記すべきと感じた限られた範囲のものを私というバイアスを通して見たものです。それは客観的な物事ではなく私の中の何かが投影されたものなのだろうと思います。

  

 

各記事の項目について

  各記事の冒頭にそれぞれの内容が予めわかるよう「分類」、「概要」、「年齢制限」という項目を記載しています。それぞれの項目について簡単な説明をつけるようにしますので参考にしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

(仮)明るく清潔感のある場所

分類:短編小説

概要:1980年代、旅先での風景

年齢制限:なし 

 

(仮)明るく清潔感のある場所

 

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Part I

 その街には夜遅く船に乗って着いた。中央駅までの交通手段もないのでタクシーで向かうことにした。駅についてみると次の列車の時間まではまだしばらくあった。僕は列車が出るまでの時間をつぶす場所を探した。思いついたのは待合室だった。あそこならただで時間をつぶせるし夜風にあたって寒い思いをすることもない。駅の案内図で待合室の場所を確認すると、荷物を持って向かった。
 真夜中の待合室だというのにたくさんの人がいた。外国からの旅行者、学生、その少年に話しかけている酔っているような中年の人。つばを吐く人、ベンチの上で大の字で寝ている人。待合室に入るとそういった人々の視線をまともに感じた。タバコの煙が立ち込める部屋でたくさんの目が恨めしそうに、あるいはぼんやりと僕の方を見ていた。僕はしばらくその場に立ちすくみ、人々で一杯の部屋の中を見渡した。「座れる場所もないな」そう思うと急いでガラス戸を開けて出ていった。
 駅前の花時計の横を通り過ぎるとスクランブル交差点の向こうに見慣れた赤いネオン看板が輝いていた。夜の暗さのなかでアルファベットのイルミネーションが煌々と光を放っていた。何度も見慣れた場所だというのに初めてこのイルミネーションがあることに気づいた。その赤い看板のビルの隣にドーナツ屋があった。ドーナツ屋の明かりは店内の壁に反射され白い光を周りに降り注いでいた。僕は車の通りの少ない交差点を信号が青になるのを待って渡った。店の中は明るく清潔な感じだった。僕は荷物を置き、ミートパイとドーナツとジンジャエールを注文した。ミートパイを電子レンジで温めるのを待って、それらを持って外が見える席に着いた。そこからは通りの向こうにある駅の様子がよく見て取れた。僕はミートパイにかぶりついた。冷めてパサパサしていた。生地のしっかりしたパイを期待していたので予想外だった。ミートパイを食べ終わって時計を見ると00:05となっていた。そんなに時間は経っていない。ドーナツをゆっくり食べだした。店内にいた女の子二人が出ていき、客は向こうの隅にいる初老の人と僕だけになった。あの人も列車を待っているのだろうか鞄が大きい。僕はヘミングウェイのWinner Take Nothingを取り出して読み始めた。この本は一年以上も前に買ったものだが、まだ読み終えていなかった。他に興味をそそられる本を見つけるとそちらを先に読んだりしていたからだ。また思い出すと本棚から探し出して続きを読む。そういったことを何度か繰り返していた。何度も読み返したところもあれば、まだ読んでいないところもある。一度読んだだけであらすじも登場人物も忘れてしまったものもある。短編集だから他のものを先に読んでしまうのだろうか。それとも原文だからだろうか。いずれにしろ、読み始めはしたものの、未だに一冊を通して読み終えていなかった。
 しばらくすると、会社帰りらしき人がドーナツを買っていった。こんなに夜遅くまで仕事をしてるのは大変だ。そう言えば、ここの二人の店員もまだ働いている。二人とも若く学生のバイトのように見える。朝までここでいるのだろうか。一人暮らしであれば、こういった明るい場所が何がしら心地よいのかもしれない。

 本を少し読んでは目をあげ外の景色を見、ドーナツを食べる。この繰り返しで時間を使った。何回か繰り返した後、ドーナツは少しだけ残したままにしておいた。ジンジャエールもそうした。外を見ると信号機の青い光が夜の闇の中に溶けだしていた。だがそれも少しの間だった。信号が変わった。
 ひとりの男が入ってきた。中年で腹が出ていて、少し酔っている男が。彼はカウンターの一番奥まで入っていき、「ドーナツをくれ」と叫んだ。
 静かな気分を壊されて残念だった。きれいに磨かれた大きな窓ガラスを通して見る外の世界のようにここも静かだったのに。信号が変わり車が止まり、また動き出す。目に入る光は交差点の向こうの駅の明かりと信号の色。人の気配はない。ただ、ときおり通り過ぎるタクシーに人の影を見るだけっだった。
 店員は静かに答えた。「どのドーナツにしますか。」
 「ドーナツをくれ。ドーナツ。」
 「これですか。」
 「ああ、それでいい。」
 ドーナツ屋にはいろいろなドーナツがある。それぞれ一つ一つに発音しにくい名前がついている。そこに意味を見出していれば名前を並べて注文することもできるだろうが、そうでなければウインドウ越しに並んでいるものを指さして注文するしかない。
 「久しぶりだな。」酔った男は言った。
 「ええ。」店員が答えた。
 「お前ら、きちんと学校へ行っているのか。」
 「ええ、一応行っています。」見た目年上の店員が答えた。
 「二人とも同じ学校か。どこの大学だった。」
 「〇〇大学です。」年上の店員が地元の大学の名前を答えた。
 「お前もそうか。」と若い方の店員に聞いた。
 「いえ、違います。」
 「それじゃどこだ。」
 「彼は専門学校生なんです。」年上の店員がお茶を濁すように言った。
 「そうか。」男は聞き流した。
 「大学で何を専攻しているんだ。経済だったか。」大学生の店員に聞いた。
 「いえ、法学です。」店員はにやけながら答えた。
 「ああ、そうだった。」男は納得したように言った。
 「お前、佐藤だったな。」
 「いえ、違いますよ。」店員は笑いながら答えた。
 「お前が佐藤か。」若い方の店員に向かって聞いた。
 「いえ、違います。」
 「あれ、あいつはどうした。今日は休みか。・・・そうだ、お前、小林だったな。そうだろ、小林。」と大学生の店員に向かって言った。
 「いえ、違います。」
 この中年の男は何者だろう。酔っていることは間違いなさそうだが。夜の寂しさを紛らわせるためにやって来たのだろうか。酔っていなければ教師として通じそうな男なのだが。最初に入って来たときは、バイトの学生の恩師のような様子だったのだが。
 窓の外では信号の色が変わり、車が止まった。
 僕は時計を見た。列車が出るまでにはもう少し時間があった。ドーナツをかじり、ジンジャエールを少しすすった。少し早めに行った方がいいかもしれない。
 店の中ではロック音楽が流れていた。ディスクジョッキーが外国人だったからFENか何かだったのかもしれない。今では店全体が夜のしじまから浮いているように感じた。それでもロック音楽は店の雰囲気に合っていた。ブルースでも流していたらたまらなかっただろう。夜のとばりをより重くするだけだ。それに、隣の赤い看板に合わないだろう。
 店に入ってきた中年の男はそこだけ店の雰囲気を変えていた。彼はブルースの静けさでもロックの軽さでもない音楽が似合いそうだった。僕は時計を見た。そろそろホームに列車が入ってくる頃だろう。ホームに入って列車に乗っていたほうが静かかもしれない。男は、まだ大きな声で話をしている。窓の外を見た。車は通っていない。人の姿も見当たらない。改札の明かりは信号の向こう、遠くにある。
 「いいか、お前ら。」中年の男は店員にしきりに話しかけている。店員は聞いていないようだった。
 「いいか、若いということはいいことだぞ。」彼は店員の注意を引こうと相変わらず大きな声で話している。
 「いいか。若いことはいいことだぞ。俺だってもっと若ければいろいろやれたはずだ。そうだろ。」強引に返事を引き出そうとしていた。
 「え・・・、ええ。」大学生の店員は笑いながら答えた。
 「くどいな。」と思った。だがすぐに思い直した。人にはいろいろある。分かっていないことに自分の評価を出したくない。それに他人のことにはできるだけ干渉したくない。この人たちにこれ以上付き合うこともないだろう。残りのドーナツを口に放り込み、ジンジャエールを飲み干した。店員の言葉を背中で聞いて店を出た。
 店の奥の初老の人はまだ静かに座っていた。

 駅に入っていくと会社員らしき人が僕の前に改札に入っていった。いったいいつまで働かされるのだろう。僕の前を歩いている会社員と彼を照らすホームの薄暗い明かりはロックもジャズも似合いそうになかった。
 ホームに止まっている列車に乗り込み、窓際の席に座った。まるで行く先の分からない列車に乗っているような気持ちで外を見た。改札の明かりの下をドーナツ屋にいた老人が入ってきた。

 

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(当初の構想では、Part IIで港から駅、ドーナツ屋、列車までの同じ時間の経過を老人の視点から見た物語として書き、Part IIIで若者と老人が列車の中で同じ時間を過ごす物語を書くということになっていましたが、(例によって)Part IIの途中までしか筆が進んでいないのと、短編小説としてある意味Part Iで完結しているともとれますのでPart Iのみで公開させていただきました。)